2011年4月24日日曜日

「する」

2011.3.11以降、

混迷の度は増すばかりです。


その対処として、

“自粛”はいかがなものでしょう。


明確な理由なき自粛は、

単なる“停滞”なのではないでしょうか。



特に、なにも起きていないように見えて、

地球は回り続けています。


特に、なにも変化していないように見えて、

人の心・身は変わり続けます。


その中にあって、

自粛=停滞とは、どんな意味を成すのでしょうか。


停滞は停滞でも、

動いている中、変化している中での停滞ーー

そう、それは後退なのです。



こんな時だからこそ、

動くことが大事なのです。


これほど、

生きる意味が強く、

生きる意義が深いと感じることが

あったでしょうか。


その中で、

「自粛 [名](スル)自分から進んで、行いや態度を慎むこと。」

(出典:大辞泉)

は、

生きることへの冒涜とならなないでしょうか。



ともあれ、

僕は、ますます動きを加速させていかねば、

と思っています。



そんなとき、

座右にあるメモが

励みになります…。



1930年代のアメリカは、大不況に喘いでいた。

そんな中、ジョージ一家は、カリフォルニアへに移住を図る。


しかし、いざ出発するのときに、

父親は「できるだろうか」と弱音を吐く。


それに対して、母がきっぱりと言った。


「できるかっていう問題じゃないよ。そうするかっていう問題だよ。

できるか?っていうことになりゃ、あたしたちにゃ、なんにもできやしない。

(中略)だけど、するかっていうことになりゃ、なぁに、あたしたちはしようとすることをするだけのことだよ」

(スタインベック著「怒りの葡萄」より)



とにかく、

し続けよう、

そんな想いです。